
新作を前にして、自らの中に生き続ける母、そして、その母の存在に象徴される創造の母性について語る坂井眞里子を見つめながら、私はなぜか現在美術におけるレジェンドともいえる、フェミニズムアーティストであるジュディ・シカゴを思い出していた。
日米の同時代をアーティストとして生き抜いてきた二人の女性という共通点だけでなく、もっと具体的な二人の親近性が私自身の記憶の中で不思議な邂逅を果たしたのだろうか。創造の根源にある母性に対する極めて近しい二人の感性が、「女神」と名付けられた目の前の坂井の新作の画面の中で一つに溶け合っていくように思えたのだ。
もちろん、そこには二人をつなぐ小さな符号の働きがあったのだろう。というのも、女子美術大学を卒業し、坂井が留学したニューヨークのブルックリン美術学校。かつてその美術学校を併設していた現在のブルックリン美術館で、私は半永久的なコレクションとして展示されている「ディナーパーティー」という39枚のプレートに神話上の女神から歴史に名を残した実際の女性をモチーフに描いた、フェミニズムアートの最高峰と言われるシカゴの作品に衝撃を受け、2007年にシカゴを坂井の母校である女子美に招待し、講演会を開催したことがあったからだ。そして、そこで熱く語られたことこそ、表層のフェミニズムではなく、創造の母性、創造の深い根源にある力についての話だったのだ。
「命が燃えさかる様を体当たりで描く」、「自分の体温土地の流れるリズムに最もぴったりくる色が赤であり、その形が螺旋や蛇状曲線であった」という坂井の作品は、これまで確かに女性的な因子の成せるものとして受け止められることもあった。しかし、その情熱的な画面を冷静に眺めるならば、表層のフェミニズムを越え、もっと大きな力に導かれながらコントロールされた、決めて抑制された精神の所産であることが見えてくる。それはカドミウム・レッド・パープルから、さらに透明度の高い赤のクリムソンやマゼンダへの行こうや、「描くということは、自分の生きた証をキャンバス状に形にすること」という、明快な意識の表明によっても推し量ることができるが、何よりも古代ギリシャの壁画から想を得た「図と地」、つまりモチーフと背景という、絵画を成立させる絶対の零度の地平に立ち返ろうとする、その態度に象徴さえれる冷静なる意識こそ、画家坂井眞里子の本質があるというべきではないか。
だからこそ、今回の新作も実際の母の思い出の写真からすくい取った記憶の断片をモチーフに、母に重なる自らの人生を確かめるシリーズでありながら、センチメンタルな要素から自覚的な距離を堅持した、あくまで図と地のせめぎ合い、そして融合によって生成する、絶対の絵画への途上にあるものとして受け止めることができるのだ。それが創造の母性に対する坂井の坂井の洞察の一つの成果として、ここに開かれるということではなかったか。
ジュディ・シカゴが自らの中に息づく女性的要素やユダヤの歴史を援用しながら、追求し続けてきたものも、センチメンタリズムを越えた、女性性とも男性性とも無縁の、創造の母性に触れる表現の可能性であった。
坂井まりこは冷静なる意識と覚悟をもって、いよいよその母性に触れようとしているのだ。彼女は伝えようとする。絵画の体温とはいかなるものであるかを。その体温の根源である母性への止み難い希求の切なさにも似た感情に対する愛を忘れることなく。
最後に、その営みに小さな言葉を添えるとすれば、それはその達成に最愛の母もまた力を貸してくれているということだ。今、目の前に開かれる新作がどこか照れながらも、嬉々としているように見えるのは、きっとその母の力とともに描いた喜びがその画面に溢れているからなのだ。